零から

気になることやその日のことを日々綴るブログです。

親友の少ない僕は果たして幸福であるのか分からない。

僕は子供の頃から人見知りで人付き合いは上手い方ではなかった。

学校で新しいクラスになって、初めて顔を合わすような人とは自分から話しかけることはできず、なかなかなじむことはできなかった。

親友をいつまでもつながりを持ち、仲良くいられる友達であるとすると、運よく僕にとっては親友と言える人が、そのときそのときではいた。

その繋がりは、同じ児童クラブに通っている子、部活の部員、同じクラスメイト、友達の友達と様々ではあるが、僕にとっては親友ともいえる人が何人もいた。

学校の終わりには、ご飯を食べにいったり、家で遊んだり、勉強では切磋琢磨したり、辛いことがあったときには励まし合ったりもした。

僕は彼らのことを親友だと思っていたし、いつまでも遊んだり、ご飯食べたりして付き合っていく仲だと思っていた。

でも、現実は違っていた。

みんな、高校生になったときに僕からは離れていった。

みんなは未だに遊んだりしているようだが、僕がその輪に入ることはできなかった。

当時は丁度スマートフォンが普及しだしたときで、みんながラインをしだしたが、僕だけはメールを使っていたから連絡するのが面倒くさいのだろうと最初は思ったが、結局彼らから僕に連絡が来ることはほとんどなかった。

そのときから、僕は小中と付き合っていた親友と思っていた彼らのことを、信じられなくなってしまった。

僕は彼らのことを親友だと思っていただけで、そうではなかった。

 

高校生になり、僕はそういった関係を常に疑うようになった。

ただ、普段の態度や心情でそのように思っていたわけではなく、深層の中で燻るような感じだ。

今、僕が親友だと思っている彼らも、そのうち僕から離れるのだろうと。

高校でも親友と呼べる人が自分の中では何人もいたが、結局大学進学と共に関係は希薄になってしまった。

 

今、大学では仲間や先輩達に囲まれて、とても充実した時間を送っていると思っている。

ただ、彼らがこれまでの友人達のようになってしまったら、果たして僕は幸せな生活を送れるのだろうか。

希薄な友人関係はきっと今後の人生において、マイナスな面しかもたないだろうと思う。

実際、僕はこれまでのそういった人間関係による悩みで、極度の人間不信に陥っていると思っている。

高校生になったときには、そのせいでノイローゼのようになってしまい、学校を何日か休むこともあったのだ。

ストレスによる不整脈や体調の悪化などいろいろな弊害も経験してきた。

身近な人を亡くしたし、母との間も険悪な機関が長期続いたこともある。

そんな中で考えていたのは、死だったとおもう。

 

身近な人が次々にいなくなっていき、家庭にも居場所はなく、どこにも心を休めることができなかった。

学校でも対人によるストレスと部活での責任者としてのストレスで、常に押しつぶされる気分だった。

もう死んでもいいかな。

って思ったのはそのときの僕には当然だった。

 

だけど、そのとき僕にとって転機になることが起きた。

ある信頼できる人に出会い、僕はこの人のためなら生きていけると思った。

生きていてもいいと思った。

 

今でも、そのときの気持ちは忘れないようにしているけど、たまに忘れてしまう。

そんなときに、タイトルのような言葉を思い出す。

そういったことを考えるのは、高校生のときに出会ったその人に対して、とても失礼なことだ。

そして、その出来事を思い出すと自分は本当に幸福な奴だと思う。

だからこそ、自分のことが中途半端で、つまらないやつで、気持ちの悪いやつだと自己嫌悪してまう。

こんな風だから、自分は幸福になれないと考えてしまうのだろうか。