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世界五分前仮説で見直す自分の認識

世界五分前仮説は、実は世界が五分前に始まったのかもしれない、という仮説である。

 

僕らは五分前の一瞬に誕生し、その段階で記憶を植え付けられ、今の環境に置かれる。

そして、世界は続くばかりか、今この瞬間にも終わるかもしれない。

 

一般的に、世界は膨大な時間を継続的に存続していると考えられているが、世界五分前仮説では断片的に生まれては消えて、また生まれては消えてを繰り返すものであると、考えることもできる。

 

この仮説を否定することは、世界が五分前も存在し過去があるということを証明することであるが、これは不可能である。

なぜなら、僕らの記憶が偽りのものであった場合、それは証明足り得るものでなくなるからだ。

 

この問いの本質は、僕らの知識、とはいったい何であるかということにつながる。

 

 

デイヴィッド・ヒュームの知識の分類

エデンバラのディヴィット・ヒュームは知識を三つに分類した。

  • 絶対的知識

必然で絶対確実な知識。

2の3倍は12の半分に等しいなど、単に思考の範疇で現れる知識。

  • 立証的知識

99.9%以上、確かな知識。

明証性が記憶や感覚を超えたもの。

  • 蓋然的知識

それ以外の知識。

記憶や感覚による知識。

 

この中で、立証的知識においては、僕達に明証性を与えるものとしてあげられるのが『因果』である。

因果とは

因果とは、ある結果に対して存在する原因のことで、因果関係はその関係のことである。

因果関係は三つの要素に分けることができる。

  • 近接

原因が遠くにあろうとも、実は見えていない部分で因果関係が存在すること。

例、風が吹けば桶屋が儲かる

  • 継起

原因は結果に対して、時間的に先行している。

つまり、原因と結果は同時に起きない。

  • 必然的結合

原因と結果に、必然的な要素を見出す。

例、煙を見て、火が出ていると思う。

 

ここで重要になるのが、必然的結合である。

僕らは煙を結果と呼び、火を原因と呼ぶが、これらを経験することで心の中で無意識に関係性を見出す。

こういったことを恒常的に経験すると、心は煙を見ると火を連想するようになる。

これは、心が何の理由もなしに、その関係を確かなものだと認識してしまっているということだ。

つまり、因果関係というものは、外的な要因に関わらず、僕たちが心の中で決定したものであるということなのだ。

 

つまりどういうことなのか

因果関係が外的なものによらず、心の中で決定されることならば、信用ならないものだ。

世界五分前仮説と同じように、今の僕が持っている知識の全てに、確からしさというものは感じられなくなる。

つまり、因果関係において、あらゆる事柄には『であるべきだ』や『でなければいけない』や『に違いない』という関係はないのだ。

 

僕らは日常生活において、あらゆる事柄に因果関係を感じながら生活している。

それらの全てが不確かなものだと感じるとするなら、むしろより正しく、疑わしいことに目を向けるべきである。

 

こういった考えは懐疑主義だと言われ、あらゆる事柄に懐疑的な目を向ける考えである。

僕が言いたいのは、全部じゃなくてもいいから、ちょっとだけでもいい。

 

例えば、日々の生活がこれからもずっと続くものではない、という認識を持つくらいには、自分を疑えということだ。