零から

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人間のクローン作製がダメな理由を倫理的な観点から考えてみた

 

 

高校生の時なのですが、授業で羊のクローンだとか、猫のクローンが実際にいるということを知って、人間のクローンは何でいないのだろうと不思議に思ったことがあります。

 

それから、興味だけは残っていて、たまに暇なときに考えてみたりしていました。

その後、大学で哲学の授業を受けている中で似たような話題を聞くことがあり、自分の考えをまとめようとしました。

 

僕の考えでは、人間のクローンというのは技術的な面を抜きにしても倫理的な問題があって不可能である、ということです。

そのため、これについてレポート的なものを作成しました。

 

クローンが何でだめなのか?とか、クローンについて興味のある方は読んで頂けると楽しめるのではないのかと思います。

 

因みに、このレポートを僕が作成したのは去年で、ついこの間グーグルのドライブに残っているのを見つけました。

 

そして、もしこの駄文を全て読んで頂けたなら、あなたの考えをコメントに残してほしい。

もちろん、指摘なども大歓迎だ。

 

 

クローン技術が発達したときに、人々がクローン人間を拒否する理由があるのだろうか?

ここである思考実験を考えたい。

あなたは遺伝子工学が発展し続ける世界の住人だとする。クローン人間の作製について世界中で議論が盛んになっている。クローン人間とは、人の細胞から胚を取り出し、それを培養することで、赤子の状態で生み出されたもので、容姿は成長すると胚の提供元の人間(ホストと呼ぶ)とそっくりになる。クローンを生み出そうとするときは、国の専用の機関に行き、依頼しなければならない。原則的にはクローンの親はその依頼者となる。そして遂に政府はクローン人間(クローンと呼ぶ)の作製について是非を問う投票を行うことにした。しかし、未だ問題は多く残っている。技術はこのまま発展していきそれに伴って問題は一つずつ解消されていき、遂には全て解決されるとする。あなたはどの問題が解決されたら賛成に票を投じるだろうか?それとも最後まで反対のままだろうか?

 

 

この世界で解消されていく問題は、クローン技術の安全性などの技術面やクローンの社会的な地位などの法の整備で解決されるものである。つまり、このまま問題が解決されていったときに、クローンの作製に残る問題とは倫理的な問題だ。

この問題が生じるのは、クローンを生み出そうとする動機からである。クローンを生み出そうとするときに、親はクローンを誰の細胞の胚から生み出そうとするのか。自分の亡くなった子供か、優秀な人間か、自分の父親か…。このどれもがこれから生まれるクローンと、ホストを少なからず同一視している。クローンとホストは限りなく近い容姿になるが、二人は互いに全く違った人格を有している。つまり、二人を同一視することが二人の人格を蔑ろにすることになりかねない。言葉を変えるなら、ある人格を持つ人を蘇らせる、複製しようとして、本質的には全く異なった人物を生み出しているにすぎないということだ。このとき、親はホストを目的とし、クローンを生み出す事を通じて、その願望を遂げようとしている。つまり、クローンは目的を達成するための手段や過程になってしまう。

クローンの子が手段となっているのが問題ならば、例えばホストの胚をランダムで選べばよいのではないかという、話題が考えられる。例えば、自分に遺伝性の病気があり、それを子供に与えたくないと考えたときに、ランダムな選出で胚を選び、クローンを生み出すのは確かにクローン自体が目的となっていると考えられる。ホストとそっくりなクローンを生み出そうとしているのではなく、クローンのことを考えて、病気を取り除こうとしているのは、親が子供を病院に連れて行くのと変わらないように思えるからだ。実際、親が行っていることからは、養子縁組や精子バンク、代理出産を依頼しているのと同じように、クローンというただ新たな選択肢が増えたかのように感じる。

しかし、ここでのクローン人間の作製は、クローンの人格を尊重しているものとしているが、果たしてクローンとホストの両方の人格が尊重されたものと言えるのだろうか。クローンとホストの互いの人格が守られるときというのは、二人が別々の人格として見られることであるのは先に記述した通りであるが、それが真に表すのは、二人がクローンとホストであることが二人の人間関係や社会との関係に何も影響を与えないということだ。社会からも、親からも、友人からも、お互いからも…。しかし、そのようなことは不可能に近い。二人の容姿はとてもよく似ているし(将来的に似る)、遺伝子的にほぼ同じでもあるし、どの人がどのホストのクローンであるという事実は残る。だから、これを実現しようとするなら、二人の存在や関係をすべての人が知らないことが条件となる。機関に依頼したクローンの親や機関の技術者すらもどの人がクローンであるとか、ホストであるかを知っていてはいけない。

こうなってしまっては、個人でクローンを作製することはできない。それは、クローンとホストが関わるグループの規模が、個人が関わることで縮小してしまい、二人の関係が露見してしまうことにある。ここで、新たに思考実験を考えたい。

 

クローンの作製は完全にオートマチック化した。人々は皆、子供院という施設で育ち、親と子という家族関係は一切なくなったのだ。有性生殖によりうまれた子供と機関でロボットにより完全に管理され、実在していた、もしくは実在している人の細胞の胚から培養されて(無性生殖)うまれた子はいっしょくたに子供院で育てられる。子供院はこの機関の管轄下にあるので、ロボットが管理しており、人間は誰がどのように生まれたかなど考えることなく、子育てに興味を示さずに仕事や遊びや恋愛を楽しんでいる。

 

クローンとホストという関係が実在はしているが、誰もがこの関係を認識できない世界では、人々の関係にその関係性は全くといっていいほど干渉していないように見える。二つの関係性をはらむ、グループの規模が拡大されきって、遂には誰も気づけなくなってしまったということに近い。だが本当にこれでいいのだろうか。この段階までいけば、私の中でのクローン人間の作製についての問題は、すべて解決したように思える。クローンとホストの関係はあるが、誰にも見えないのでその影響はないだろう。

 

ここで違和感が残るのはなぜなのだろうか。例えばこの思考実験ではクローンが生み出される目的について言及はされていないが、もしそれが人口の調整等の目的を達するための行いであるとしたなら、クローン達は目的を達するための手段となってしまう。ならば、クローンを生み出すことに目的を伴わないとしたらどうだろう。クローンは手段や道具ではなくなる。

ここで、まず考えられるのはクローンがクローンを生み出すという、目的を伴わない行為の結果であることと、そこには何者の意志も関わっていないことである。このとき、その生まれたクローンの人格は果たして尊重されているのだろうかということである。クローンが生み出される背景について思考実験ではロボットが子供院という施設を運営している。このとき、ロボットは電気回路の信号を元に、何人のクローンを生み出すと決めている。そこに意志は存在しない。つまり、クローンが生み出されることについて、目的もなければ、結果について考慮もされていない。クローンを生み出すという行為をしているロボットにとって、その行為自体やそれぞれのクローンを生み出すこと、子供院で子供達をいっしょくたに管理すること等には目的がないのである。私達人間は何かを行う時、何か目的や結果、変化等を必ず求めている。これと比べると、この思考実験で行われていることは、空虚なものに思える。まるでこのような行為の一部にクローンとして生まれてくる人々、有性生殖によって生まれてくる人々、全ての人々が組み込まれているように感じるからだ。

つまり、クローンを生み出そうとするときに目的は必要不可欠な存在なのだ。しかし、このときの目的として、クローンが手段や過程となるものではだめだ。二つの思考実験から、これら問題を解決するための条件は言うなれば、クローンを生み出す際にその生まれてくるクローンが目的であり、なおかつその目的を決めたものとその事実がクローンとその周りの関係に影響を与えないものでなければならない。しかし、このときの目的を決める意志が個人であれば先のような状態に陥り、集団であればまたもや上のような事態になってしまうことだろう。そうなると、このようなときに意志決定できるものは神や自然、生まれてくるクローンなどの超科学的な意志を持つ何かしか考えられない。しかし、ここでそのような存在があるとしたのなら、それは正しくこの議論の破綻を意味する。例えば神が全てを決めているとしたのなら、すべての事柄や出来事が意味や目的を持つこととなり、目的が云いという話は根本から無意味な物に成り果ててしまう。

 

これが何を意味するかは、つまり、クローン人間の作製における問題を倫理的な問題すら解消するには、人間は神にでもならなければならない。もしも、神になることができないというなら、解決できない問題がある以上、クローン人間の作製をしてはいけない。