欲しい物はないけれど、プレゼントって何であんなにもらうと嬉しいのだろう?
欲しいものがないって無欲なんだろうか?ケチなんだろうか?
買いたいほど欲しいものがあっても我慢して買わない奴は間違いなくケチだ。
まず、欲しいものが全くないって奴は間違いなく無欲だ。
ところが、欲しいものはあるけど、買うほどではない。
別にお金に対してがめつくはないけど、お金を使う機会がない。
って奴がいる。
そう、僕だ。
僕は趣味は、アニメ漫画ライトノベル、ゲームと典型的なオタク趣味を持っているが、それらにお金を使うということがほとんどない。
PS4欲しいよ、switch欲しいよ、VRやってみたいよ、漫画の新刊ほしいよ、ライトノベル欲しいよ、アニメの円盤買いたいよ、新しいゲームやってみたいよ、ラノベ買いたいよ。
でも、なくてもまあいいか、ってなって結局買わない。
あった方がいいけど、なくても特段こまらないもんね。
友達がそんな僕を見ていったよ。
無欲なやつだ、ケチなやつだ、買っちまえよ、欲しいんだろ?
もちろん欲しいさ、欲しくないはずがない。
でもさ、なくても問題ないじゃんそれさあ。
ってなっちゃう。
だけど、物を手に入れて嬉しいと感じることってあるよね。
そういうときって、そこに必ず欲望を感じていたはずだ。
僕にとって最たる例として、プレゼントとかが当てはまる。
プレゼントでコップとか、洋服とか、手作りのお菓子とかもらうことがある。
僕は普段それらにこれっぽっちの興味を持ち合わせていないし、自分から購入することなんてありえないと思っている。
だけど、プレゼントでもらったときってめちゃくちゃ嬉しい。
本当に大切に扱うし、相手にお礼を伝えるし、毎日のように愛用する。
そう、これまで、まったく興味のないゴミだと思ってたものが、宝物になる。
これってすごくない?
僕は元々ほしいと思っていた物は、心の中で不必要と切り捨てているのに、他者がくれたどうでもよかったものは、心の中で一際大きく輝く。
これだけ嬉しいなら、僕はそれらを買ったり、欲しいものを迷いなく買うだろうが、そうすることはしない。
なぜだろうか?
そんななか、僕が思いついた仮説は、僕は物に対して愛情を求めているのかもしれない、ということだ。
自分が欲しいものを買うということは、それが欲しいという欲望に身を任せている。
自分で買ったものにあるのは、汚い欲望の感情だけしかやどっていないように感じていて、人からのプレゼントには大きな愛情を感じている。
そう考えると、あれが欲しい、これが欲しい、って人には無くてはならない感情だけど醜いとさえ思えてくる。
でも人が人に与える物、特にその人のことを思って渡した物って、とってもきれいな感情から生まれた物だとも思う。
そう考えると、とてもすっきりした気分になった。
自分が欲しいと思うものを自分で買うのは、自分の汚い欲望に負けた気がしてただけ。
人からのプレゼントは、きっとそういうことを考えずに、物が手に入る。
そして、それが愛情に満ちていたら嬉しいわけだ。